導かれ、晶子を共有し、ああ、晶子でよかったと大きく頷いた 「さかい利晶の社」
2017/01/20
私の名前は「晶子」 あきこは明子も章子も晃子も亜希子もありますが、どうして「晶子」かというと、満州生まれの母方の祖父が与謝野晶子が好きでつけてくれた名前です。
祖父は徳島のあの野球で有名な池田の三縄という場所で食堂を営んでいました。32歳で亡くなった妻(私のおばあちゃん)との間にできた5人の子どもを男手ひとつで育てたスーパーおじいちゃん。
亡くなった時、私はまだ4歳でしたが祖父が優しかった記憶は残っています。
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与謝野晶子は大阪、堺の出身。千利休も同じく。この偉大な二人の生涯とその想いに触れることができる記念館さかい利晶の社 オープンは昨年の3月。ずっと行きたかったのですがやっと先週末に実現しました。
晶子は与謝野鉄幹との間に12人も子どもがいながら、全国、海外の各地に赴いて歌を詠んでいます。歌を愛し、歌を通して反戦や女性の生き方についても訴えています。
与謝野晶子記念館で初めて見た実物の歌集は本当に素晴らしかったです。晶子の情熱的な歌をますますドラマチックにする装丁の美しさは息を飲むほどで、私はしばらくその展示の前から離れられずにいました。
夫、鉄幹の「後世に残るものでなければならない」との言葉を忠実に守った数々は美術品でもありました。
晶子は63歳で亡くなったのですが、祖父も同じ63歳で亡くなったなあ・・とそこにも繋がりを感じながら。
晶子の歌が生まれた背景を体感できた時間。心の奥からジワジワ湧き出る晶子の余韻に浸りつつ、記念館の隣にあるスタバへ。
店内が満員で車の中で。あつ~
このさかい利晶の社とともに、その日は
・方違神社
・仁徳天皇陵古墳 も訪れました。
堺の一日、最後は「堺市役所」へ。展望階は土日も開放されていて堺の全景を一望できます。
古墳群もばっちり。
写真ではよくわかりませんが遠くに明石海峡大橋が見えます。
晶子の歌集と一緒に堺への小旅行。祖父の想いと自分の中の晶子を感じた一日になりました。